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2016年12月17日土曜日

なんで橋を架けるなの? ラポール=相手を真似ている状態≒共感≒調和した関係

ラポールとはなんだろうか?

面白かったのは、通訳さんの訳である。
「ラポールは相手から信頼を得るための方法になる。」
そう訳していた。

私がとある所で学んだラポールは、相手を真似ている状態 である。
ミラーリングやペーシングといった方法を用いて意識的に相手を真似ている状態。
また、English.Wikipediaさんによれば、empathy=共感という日本語が相応しいようだ。

多くのNLPを学んだことがある日本人は信頼関係と答えるのかもしれない。
それが、違うかもしれないと考える人はどのくらいいたのだろう。
私は、考えた人だった。

ラポール=信頼関係?

とすると、「信頼関係は相手から信頼を得るための方法になる。」となる。
そして、NLPのすべてに言えることかもしれないが、「こうすると、こうなる可能性がある」という言葉が秘密裏に後にくる。


その人が、この教えを信じてくれれば。
その人が、本当に変わりたいと思うのであれば。
信じるものは救われる。

ただし、多くの体験談の中でこうもいえる。
「ラポールは相手から信頼を失う方法になる。」
なぜなら、相手が自分の真似をしているということが分かった時点で、嫌悪感を覚える人がいるからだ。
こういう手法があるということを知っておくことは今後の対人関係において有意義に働く側面がある。
まず、相手が自分と同じようなそぶりをしたと思ったら、なぜなのか?を考えるきっかけとなるかもしれない。
有利に働くかもしれないし、不利に働くかもしれない。
相手がラポール、相手を真似ている状態、という手法を使っているのかもしれないと思う=自分とは違うかもしれないと気づくということである。

演じて似せていないのに 自分と似ていると思った人に対して人は好意を寄せる。
自然に似ている状態が正常な状態だとすると、演じて似せている状態は少し不自然な状態だといえる。


ラポールの手法とは、仲の良い人たちは自然に似ているという考えに基づき、自分はあなたと同じだよ思わせ、相手からの好意を受けたい時に使うものである。
通常の自分の行動を中断し、相手に合わせて演じることである。
よって、自分が嫌いな人が、自分と同じ行動をわざととったと思った時、あなたはどう行動し、どう思うだろうか。

私は、逆の行動をとるかも知れない。
この人と同じは嫌だと思うかもしれない。
この人は、自分とは違うから、わざわざ私に合わせる為に、演技をしているのかと思うかもしれない。

ラポール、なぜか日本では「橋を架ける」と言われる。
フランス語だが、実際のフランス語の訳だとそんな意味にはならない。
昔、心理学用語として時の精神科医が 患者との 調和した関係 を指す言葉として生まれた。
また、English.Wikipediaさんによれば、building rapport≒調和した関係の構築≒共感 であり、信頼関係としてしまうのは拡大解釈ともいえる。
グーグル翻訳さんを見ると、誰か日本人?が書き換えた節が見える。
実際のフランス語は rapport=報告、関係、レポート である。
日本人に馴染み深いレポートだが、実際にフランス語の発音を聞くとラポールに聞こえる、というかむしろリンゴ?に聞こえる。
結論としては、「相手を真似ている状態≒共感≒調和した関係」は同義であると言える。

恐らく、多くの部分で最初に日本にNLPを運んだ人たち、ビジネスチャンスととらえた人たちは、英語の意味を理解できなかったのだろう。
橋の骨組みが脆すぎて、工事が延期されてきたのだろう。
骨組みは、その道のプロが崩れ落ちないように施工するものである。
もしくは、誤訳させたほうが、彼らの商売にはうまくいったのだろうか。

形成,構築

とあるブログで「海外でトレーナーズトレーニング(講師を育成する講義)を受けているが、英語で話す講師の言葉が理解できなかった。」というようなことが書かれていた。
講師に「意味が理解できているか?」と呼び出されたとも書かれていた。
話す速度が速かったのだろう。
トレーナーズトレーニングはかなりの早口で進められる。
そんな日本人たちが日本で広めていったのである。
誤訳は多いはずである。

恐らく、生徒は比喩をよく使うように指示される。
その講師は心理学で使われるラポールを説明する時に、このもやもやした目に見えない共感というもの、患者との調和状態を作りだすために、橋を架ける ように(相手を真似しよう)と言ったのではなかろうか。

日本語の信頼関係を考えてみよう。
信頼関係= 相互に 信頼できている関係である。
ラポールは、考えてみると片側から架けた橋である。
よく心理学では、自分の気持ちは外に出し、相手に共感の意を伝えることが重要とされる。
悪く言えば、見せかけるということであり、ラポールにこちら側の心の状態は関係ない。

架けた後の達成されたい輝かしい願望がある。
通常、橋は両側から施工され架けられていく。


ラポールという手法を用いて相手を真似する人は、相手のことを信頼しているだろうか。
多くの場合、好意をよせて欲しい異性だったり、お金を運んでくれる相手だったり、何かを得たい、好かれたい、信頼を得たいと思っている人に用いる。
相手からは信頼して欲しいと思っていたとして、自分はどうだろうか。
そして、演技をしていたこと、仮面をつけていたことがばれた時どうなるだろうか。

そのうち、そのままシンプルに本当に似ているもの同士、気が合うもの同士の自然な関係がよいということを実感することができるかもしれない。

しかし、実際にはそんなシンプル生活は社会人生活では難しく、ラポールという手法を習わなくても相手に合わせる、少し似せるということは、すでに活用してきていた私であった。
仕事を効率的に回す為に相手の波長に合わせるよう努力すると、相手が思ったように動いてくれる可能性が高くなり、それはNLPを学ぶ前から経験により必然的に実行していた。
多くの人は意識して相手に合わせる、ラポールという相手を真似ている状態を多かれ少なかれ既に実行してきたのではないだろうか。

意識して行うラポールという手法。
無意識に必然的に実行できる状態になるまで、何かをつかめるまで、仕事においては使ってみてもいいのかもしれない。

本当に信頼を得るためにするべきことは何なのか?
相互の信頼という面において、両岸から施工される橋のような関係が望ましく、もろく崩れ落ちないように、まずは自分自身の屋台骨をしっかり築き、折れない心の強さを身に付けることが必要かもしれない。
小さい頃からの教育が、患者のいない世界を作るのかもしれない。


2016年11月10日木曜日

超☆能力があれば相手の心が読める NLPのキャリブレーションは誤訳?

心理状態の変化と訳したのは拡大解釈?誤訳?であり、正しくは「あなたの非常に鋭い感覚を使用して、他の人に発生する瞬間の変化に気付く能力」≒観察力である。

ある講師にとある部分を突っ込んだところ、「あ~、NLPを最初に訳した人達は、NLPのことをよく分かっていなかったみたいよ~」とのこと。

また、NLPのラポールの意味 相手を真似ている状態≒共感≒調和した関係 で書いたように、英語もよく分かっていなかったようだ。
だったら、修正すればいいのに!と思うが、何か問題があるのだろう。

NLPのトレーニング中で、私はキャリブレーションについて調べることになった。
ネットの内容はだめだけど、本の内容は参考にしていいとのことだったので、ABNLPのタッド・ジェームス氏のタイムラインセラピーの翻訳書を手に取る。
キャリブレーションについて触れている本はあまりなかったが、この本には用語集があった。
アマゾンの評価で訳が全然違うと書かれていたのが心配で、原著をお持ちの方に確認してみた。

結果、訳は拡大解釈であった。

心理学,NLP原著の用語集

Calibrate:The ability to notice changes, which occur from moment to moment in another person, using your sensory acuity.

意訳すると、「あなたの感覚の鋭敏さを使用して、他の人に発生する瞬間の変化に気付く能力」である。

また、sensory acuityも実はNLP用語であり、直訳すると「感覚視力」だった。
Sensory acuity:Having very acute levels of sensory perception.
意訳すると、「非常に鋭い感覚知覚を持っている」ということだ。



日本語訳
キャリブレーション:自らの感覚的鋭敏さを活用し刻一刻と変化する相手の心理状態を正確に見極める能力

ここで分かることは、日本語訳ではなぜか心理状態と断言してしまっていることである。
この翻訳書の出版日は私にとって考え深いものであり、メッセージ性を感じる。
何かの声や数字は、何かを暗に伝えるメッセージだったのかもしれない。


しかし当然ながら、原著や著者によると、心理状態は推測でしかなくキャリブレーションとは違う と考え教えている。
読心術って、☆超☆能力とかっていう最先端科学技術がないと無理。
ほとんどは、これまでの培った自分の経験からくる気づかいや勘違いを含めた推察力だろう。
NLPのキャリブレーションは、前後の違いを他人が比べられる、心理状態以外の知覚可能な変化に気づく力のことである。

英語から考えて、どんどん変わってしまう視覚化可能な身体的変化と言った方があっている可能性は高い。
物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること。=観察 であるので、やはり観察力というのが日本語としては相応しいと思われるが、実際に聴覚的なものも前後の変化に気づくことが推測ではなくできるので、心理状態を省いて伝えるのであればセーフであろう。

一言でいうならここでいうNLPのキャリブレーション≒観察力であり推察力ではない。
「あっ、今眉毛が1ミリくらい上に動いた」みたいな。
観察眼と捉えた方がいいような気もするが、、、

鋭い観察力=keen powers of observation
であるので、ビジネスや日常でキャリブレーションを観察力と同義語だと思って話さないようにしたほうがよい。

射程距離を測定する、(銃の)口径を測定する、較正する=Calibrate
である。
原著ではCalibrateだが、日本語訳ではCalibrationになっている。
精密機器、銃とかの正確な測定に関する言葉かも?

おそらくこのNLP用語を最初に作成した人は、銃が好きな欧米人だったのだろう。
NLPを人に教えるところまで理解しようと部分的にスポットを当てて調べていくと、こういう気づきは多いのかもしれない。

また、NLPの団体によって教え方や定義は違い、教えやすいように作った用語、造語である以上、それが分かるNLP関係者の中でだけ使う言葉として捉えていきたいところだ。
NLPではなくビジネスコミュニケーションとして教えている団体もある。
ビジネス用語として会社で使っている上司がいたが、思わずつっこみたくなってしまった。
会社では、極力日本語を使おう!

NLPに限らず他国のものを日本語に訳したものには誤訳や拡大解釈がつきものであり、本に至ってはその翻訳家の腕にかかわらず、出版社とバックの思惑が重なって原著と全然違うことがある。

ある翻訳家によると、本が売れる為には!ということやその内容を売る為には!とかを考えて翻訳していると言っている。

決められたページ数の中に内容を押し込む為には、なんとかして纏めなければならない。
英語を日本語に訳すと日本語の方が文字量が多くなってしまう為、重要な部分の意味が変わってしまうような端折りをすることもあるようだ。

出来れば原著と翻訳書を比較して読むことをおすすめする。
英語が分からない場合、スキャン翻訳アプリを利用するのもよい。
出来なければ翻訳された外国の書物などは、原著との違いがあることを十分理解した上で読み進めていこう。


2016年5月22日日曜日

右上は嘘じゃなく配慮かも! NLPのアイアクセシングキュー/アイパターンは支持されない?

調べると、あらゆる論文によって否定され、瞬間的なVAの一部のみ支持されており、あまり語られないリード表象(優位とは別)があり、ことわざの意味も考慮した結果、やはり使えない?ということに。
私はとあるトレーニング中、アイパターンについて検証をすることになったが、実際の結果をかみしても、使えない要因は多大にあり、嘘を見破るにはこれじゃだめ。

人生の質を左右する最強ツールは笑顔かもしれない。
人生で成功している方の多くは笑顔でいる時間が長いという。
海外では笑顔でいることを幼少期より学ぶ?らしい。
笑顔は学ぶものだったのだ。


アイパターンって、目が見えないと意味がない!
普段から笑い顔の人って、いつも目が細くなっているから目の動きなんて見せない!!
なんて完璧な戦略なんだろう!!!

野良 目の動き「これからアイパターンの検証をします。」
という場であれば、被験者は惜しみなく協力してくれる。
可愛くスタンバってくれた。

実験であっても、質問を投げかけると目は動いてしまう。

が、しかし。。。

あまり語られないリード表象システム(優位表象システムとは別)と言われるものがある。
何かを思う時、内部情報にアクセスする時、その人が一番最初に使うシステム、仕組み、決まった動きのことだと定義している。
アイパターンからリードする目の動きを見つけ出すことができるとしている。
何かを思う時、リードする目の動きがあり、通常のアイパターンで語られる目の動きはその後にやってくる?
そこから言えることは、だいたいの質問で2回は目が動くかもしれないということ。
そもそもリード表象しかないのかも・・・

また、English.Wikipediaさんによれば、眼球運動/視線解析は 瞬間的な思考のVA(Kは入らない)は支持される部分もあるが、一般理論の根幹部分はあてはまらない と1980年代に示されたようだ。

そういえば、検証でもKはその通りに動かない人が多かった。
私自身の検証結果としては以下があげられる。
ゆっくり言ってゆっくり待たないと目がパターン通りに反応しない人。
特定の場所に反応しない人。
わざわざ目を動かしてくれちゃってると思われる人。
どんなにがんばっても逆に目が動く人が10人中2人、しかも、全部が逆に動くのではなくKのみ逆だった。

リード表象って思考のクセってこと?
基本的には無意識に動く、クセのような動きの為変わらない。
しかし、クセは無意識から意識にあがり、変えようと意識し続けると変わることもある。
私のリード表象はVのよく嘘をつく時に動くとされる右上である。
そもそも、ガチャ目で利き目が右。
見る人が見れば真顔でも黒目が少し右にずれている。
何時も、街を歩く時には足元でなく看板や空などの上を見ていると言われる。
日常の生活習慣により、私のリード表象は決まってしまったのではないかと思われる。

残念ながら「これからアイパターンの検証をします。」という場でアイパターンの事を知ってしまっている人を被験者に選ぶことは、リード表象を確認することを困難にさせた。
ただ、目が泳いだ後にゆっくりとパターン通りに動かした被験者はいた。


チャート,VAK

海外のサイトを参考にアイパターンの一般的な図を作成してみた。
そもそも、嘘をつく右上っていっても、質問されたことが経験上なければ、右上に動くことが一番多いと思われ、嘘というか身に覚えがない!という潔白を証明することになるかもしれない・・・

親切に注意書きを用意してくれる団体であれば、一般的な右利きの人の場合のパターンであると書いてある。
こう考えていくと何パターン、何通りもありそうだ。
質問によるかもしれないし、その他要因もいっぱいあるかも?
日本人って、幼少期に強制された右利きが多い?
私、先天的には左利きかも。
また、民族の習性によって思考する場所が違ったりすることもあるかもしれない。

サブモダリティを考えてみることは興味深い。
過去に作り出した映像を思い出そうとするとき、どこにその映像はあるのか?
通常の一般理論であれば、作った時は右上でも思い出す時は左上だ。
しかし私の場合、いずれの場合でも右上にあることが多いのだ。
どのあたりにあるのか?を考えていった時、その物事によってその映像がある場所は違わないだろうか?
その物事を創造した映像や記憶の中の映像を思い出す時、実際にその映像を作ったり見たりした場所を見る気がする。
その時によって、右上だったり、左下だったりまちまちである。

その人の思考の速度やその時の状況によって、目はどんどん動く。
質問から連想される別の思い出や想像に飛んでいってしまうこともある。
「いつおわるのかなぁ~」とか♪

ただ、こんなにも人から使えるかも?と思わせてしまうのは確かである。
目が泳ぐという慣用句があったり、目に関することわざもある。
有名なことわざに「目は口ほどに物をいう」というものがある。
ことわざの意味は「情のこもった目つきは、言葉で説明するのと同等に、相手に気持ちが伝わるものだということ。」だ。
ここで重要なのは、情のこもった目つきって何?って考えてみることである。
軽蔑した目ってどんな感じ?
驚いた時の目ってどんな感じ?
民族の習慣によって、これを表したい時はこんな目の表情だよね?という共通認識があったりして、意識・無意識にかかわらず目の表情を変えるだろう。
むしろ、分って!って思って意識的に変えないだろうか、、、
目を細めるとか、目を見開くとか、、、
目の動きの方向というよりも、表情を言っている。
目を見ることは重要かもしれないが、それは小さいころからの思考のクセかもしれないし、目の動きだけで判断してはいけないだろう。

目を動かさないと何も考えられない、なんて人も私が検証した人の中でいた。
目が据わる(目が動かない)という言葉があるが、そういう人はたちが悪いと考えられている。
特定の場所に動かなかったり、目の動きが少ない人は何かしらの訓練を受けていたり、トラウマを抱えていると考えられているようだ。
小さい頃からの何かのクセだったり、生きていくすべだったかも知れない。
ちなみに、私はセルライトがたまっているためか、動くけど、左上に動かすと目が疲れる。

そして日本は お世辞文化。
人と話しをする時、いい言葉を創造して話すことはないだろうか。
気づかいってこと、大人ですもの。
NLPでいうとリフレーミングだ。

言えることは、人から何か質問を投げかけられると目は動く。
質問を投げかけられた時、思考は瞬間的に動き、同時に表情とかも動くだろう。

私たちは、目の動きの向き、強弱、目も含めた筋肉の動き、表情を観察して見ることは出来る。
そこから、こうなのかな?と推し量る、推測することはできるだろう。
でも、本当の意味でその人を分かったわけではないだろう。
そのくらいの推測、アイパターンを学んでいなくても分かる人は多い。

とある探偵学校の先生より、本当に嘘を見破りたければその人(家族)の寝室にこっそりレコーダーを仕込むべきなようだ。
実生活でこのパターンが役にたつとするならば、家族や夫婦間でのもめごと時が多いようなので。
証拠2つくらいあることが重要なよう。
アイパターンを見ても証拠にはならない。

家族などであれば、特定の条件下での目の動きを何度も試す機会がある。
機会が多ければ多いほど、当てられる可能性は高まるかもしれない。
が、初対面の相手や少しの付き合いの友人やお客様などでは難しいだろう。

良い活用ができるとすれば、推測することから生まれる 気づかいと親切心が人を幸せにする かもしれないということ。

昔々、NHKの白熱教室で「幸福とは?」という幸福に関する研究を行ってきたアメリカの大学博士の講義を見た。
「ここにいること」「人とのかかわり」「親切心」
この3つの要素は人の幸せに繋がることが多いと説いていた。
特に、「ここにいること」がこの放送があった後くらいから少し言葉を変形させて、よくビジネスで使われるようになってきた気がする。
日本のちょっと名のしれた人たちがこのフレーズを使っているのをよく見かける。
この3つの要素は抽象的であり、危うい言葉である。

困ったことは、金儲けができるという触れ込みで営業目的で潜入する人たちがいることだ。
明日は自分のお客様。
親切にしたいと思える相手がいることも重要?
集まる参加者のレベルも重要?

営業マンたちの実験台となる親切心ばかりの場であった!!
合わせないと空気読めない悪い子になっちゃう!
良いことを言ったと思える幸せな時間。
一日十善以上の時間だね。
ただ、人生において日々をもっと後ろめたくない言葉で過ごしたいものである。


参考:日本催眠心理学会  NLPに関する研究調査結果:支持されないデータまたは不可能理論?

2016年4月18日月曜日

ビジネス・大人には使えない? NLPのモデリングとは

NLPのモデリングは一般的な心理学用語のモデリングとは別だ。
一般的なモデリングは主に幼少期に自然と行う成長過程の行動であり、多くの場合親がモデリングの対象である。
これを、大人に対しても有効であると 強く主張する ものが、NLPのモデリングである。

 ~ヴィパッサナー瞑想の長老の言葉~
 コピー機を考えてごらん。
 同じものをコピーするのに、機械ですら、まったく同じようにはならない。
 少し薄かったり、線が入ったり、文字がいびつになったり、縦横がずれたりする。
 まして、人には感情がある。
 ここはいいから真似するけど、ここは真似しない、というフィルターが多く入る。
 そんな状態で、純粋にその人を真似るということが出来るだろうか。
 同じ結果が得られるだろうか。
 真似をするという考え方が最近非常に多い。
 こういう考え方はやめてほしい。

これを聞いたとき、そういう考え方もできるなぁ~と思った。
私たちには確かに感情があり、機械のできる範囲を大幅に超えて真似できない。


真似をしたい相手の感情、なぜその時そうしたのかが分からない。
公表される話しか、ほとんどの人は知らない。
どのように育ち、行動してきたのか。
支援者・友人たち。
ほんとうのことは分からないことだらけである。

よくNLPのモデリングでは、本当に軽い気持ちでその人をイメージしてその人の公のパフォーマンスを真似しようとする。

同じような結果を生みたい。
でも、その人自身にはなれない。
現在、みんなと同じようにしよう、という集団を重視し、個を重視しない考えが多いのだろうか。

そんなことはない。

実際には、ビジネスの世界で成功する方法で必ず必要とされるもののは 自分にしかない光があるか? である。


個が光る人を、みんなが真似しようとする。
親の七光り、親に似ているだけでは昔からだめなのだろう・・・
このことわざ、もしかしたら親の十光りならいいのかもしれない。
自分が十分の光を発さなくてはいけない、七分では認められないのかもしれない。

ビジネスの世界では 誰かと同じことをしたらだめ、 誰も手をつけていないところを見つけなければチャンスがないと言われるようだ。

ただし、実際にはこれと逆で多くの人が真似をしている。
ただの真似っ子から抜け出せず、最初は真似だとばれなければよいが、その真似はいつかばれる。

あ~これは、誰かのパクリだなと分かる人には思われる。
そして、真似だけしかしない人は、その本質を理解できているのか・・・
一部の言葉や行動を真似したとして、その背景にあるこれまでの多くの情報は得られていないだろう。
突っ込まれると困る、うまく答えられないNLP講師は多いそうだ・・・
そこで、うまく切り抜けるためののらりくらり回答論法が役にたつようだ。

パクッてるだけだな~という人を、あなたはどのように思うだろうか。

昔から、学ぶということは真似るということだという人もいる。
実際に、そういう側面もあるだろう。
学ぶという言葉の中に真似るという言葉を内包している気がする。
小さい頃は大人を真似して学んでいくことが自然に起こるし求められるが、大人になると真似ではない七光りではない学び、創造 を求められる。

日本のNLPでモデリングを講義に入れているのは自分が目指したり・尊敬したりする人をイメージしてなりきって演じていることが楽しく、生徒に受けがよいからなのだろうか?
正直私としては、この講義辞めて!って思っていた。
ただ人前でプレゼンテーションを行う人で苦手意識がある人にとっては、内面などから真似るなど出来るはずもないが、見本となる人の真似たいジェスチャーだけ真似ることは必要だったのかもしれない。

モデリングという心理学用語はNLPの創設者たちが作った言葉ではない。
前述通り、NLPのモデリングは一般的な心理学用語のモデリングとは別に考えられているようだ。
一般的なモデリングは主に 幼少期に自然と行う成長過程の行動 であり、多くの場合親がモデリングの対象となる。

モデリングは:
  1. セラピストによる具体的な言葉の指示なしに、クライアントが模倣だけで学習する精神療法のある技法で使用される方法(認知行動療法を参照)
  2. 人間が他人のモデルとして役立ち、他者の模倣する行動を示す一般的なプロセス[1] [2]このプロセスは、発達心理学における子供に関して最も一般的に議論されている。
(en.wikipedia)

これを、大人に対しても有効であると強く主張するものが、NLPのモデリング である。
NLPを創造しようとした人達は、こういうことってあるよね?みたいな感じでNLPのモデリングとして独自にモデル化して発表したようだ。
実際に、大人が自然に行うモデリングとは何があるのだろうか。
English.Wikipediaさんによれば、言葉の指示がなくても行っている真似のことだ。

親と子供が内面も含めて怖いくらい自然と似ることがあるように、大人が自然ではなく意識的に似せようと思って内面まで嘘をつかずに似せられるだろうか。

長老の言葉、決してこの瞑想会の信者というわけではないが、NLPを突き詰めて学ぶと瞑想に関して興味が出る人が多いらしく、瞑想と言えばヴィパッサナー瞑想が人気のようなので、たまたま行った講話でコピー機の話を懸命に話していた。
NLPのモデリングのことを名指ししていたわけではないが、私にはNLPのモデリングのことのようだと思った。

多くのスポーツや習い事には、確かに基本となる型がある。
大人でも先生につき、その基本となる方法を学ぶだろう。
その方法を習得している先生を真似る、手本とするだろう。
あなたが、今度は先生になって生徒を持つこともできるだろう。
同じ先生から教わって、同じ基本の型を覚えたとして、あなたはあなたの先生と同じような成果を出せるだろうか。
私たち大人が、100m走をみんな力いっぱい走って、同じ結果になるだろうか。
どこかに故障があり、走るのを放棄する人も出るはずである。

幼少期はまだ、心や体が柔軟であるため、違いは少ないかもしれない。
それでも、出てくる違いは何なのか。
その違いがあることが、いけないことだったのか。
モデルとしている人は、その中でトップで走れる人ではないのか。
その人を越して、自分がトップで走れる人になるつもりなのか。

トップに入る人に共通していること、それは真似ることが出来ないものがあるということである。
大抵の人は、そこまで考えていないのではないのか。
軽い気持ちで真似をしているのではないのか。
先生と同じことをすることがよいのか。
周りの他の生徒と同じことをすることがよいのか。

個は、そういった方向性からは出てこないかもしれない。
よく聞く一般論だが、自分で考え、自分で見つけていくこと、違いを出すこと。

集団から個に移動した時、何かが動き出す のかもしれない。