2016年4月18日月曜日

ビジネス・大人には使えない? NLPのモデリングとは

NLPのモデリングは一般的な心理学用語のモデリングとは別だ。
一般的なモデリングは主に幼少期に自然と行う成長過程の行動であり、多くの場合親がモデリングの対象である。
これを、大人に対しても有効であると 強く主張する ものが、NLPのモデリングである。

 ~ヴィパッサナー瞑想の長老の言葉~
 コピー機を考えてごらん。
 同じものをコピーするのに、機械ですら、まったく同じようにはならない。
 少し薄かったり、線が入ったり、文字がいびつになったり、縦横がずれたりする。
 まして、人には感情がある。
 ここはいいから真似するけど、ここは真似しない、というフィルターが多く入る。
 そんな状態で、純粋にその人を真似るということが出来るだろうか。
 同じ結果が得られるだろうか。
 真似をするという考え方が最近非常に多い。
 こういう考え方はやめてほしい。

これを聞いたとき、そういう考え方もできるなぁ~と思った。
私たちには確かに感情があり、機械のできる範囲を大幅に超えて真似できない。


真似をしたい相手の感情、なぜその時そうしたのかが分からない。
公表される話しか、ほとんどの人は知らない。
どのように育ち、行動してきたのか。
支援者・友人たち。
ほんとうのことは分からないことだらけである。

よくNLPのモデリングでは、本当に軽い気持ちでその人をイメージしてその人の公のパフォーマンスを真似しようとする。

同じような結果を生みたい。
でも、その人自身にはなれない。
現在、みんなと同じようにしよう、という集団を重視し、個を重視しない考えが多いのだろうか。

そんなことはない。

実際には、ビジネスの世界で成功する方法で必ず必要とされるもののは 自分にしかない光があるか? である。


個が光る人を、みんなが真似しようとする。
親の七光り、親に似ているだけでは昔からだめなのだろう・・・
このことわざ、もしかしたら親の十光りならいいのかもしれない。
自分が十分の光を発さなくてはいけない、七分では認められないのかもしれない。

ビジネスの世界では 誰かと同じことをしたらだめ、 誰も手をつけていないところを見つけなければチャンスがないと言われるようだ。

ただし、実際にはこれと逆で多くの人が真似をしている。
ただの真似っ子から抜け出せず、最初は真似だとばれなければよいが、その真似はいつかばれる。

あ~これは、誰かのパクリだなと分かる人には思われる。
そして、真似だけしかしない人は、その本質を理解できているのか・・・
一部の言葉や行動を真似したとして、その背景にあるこれまでの多くの情報は得られていないだろう。
突っ込まれると困る、うまく答えられないNLP講師は多いそうだ・・・
そこで、うまく切り抜けるためののらりくらり回答論法が役にたつようだ。

パクッてるだけだな~という人を、あなたはどのように思うだろうか。

昔から、学ぶということは真似るということだという人もいる。
実際に、そういう側面もあるだろう。
学ぶという言葉の中に真似るという言葉を内包している気がする。
小さい頃は大人を真似して学んでいくことが自然に起こるし求められるが、大人になると真似ではない七光りではない学び、創造 を求められる。

日本のNLPでモデリングを講義に入れているのは自分が目指したり・尊敬したりする人をイメージしてなりきって演じていることが楽しく、生徒に受けがよいからなのだろうか?
正直私としては、この講義辞めて!って思っていた。
ただ人前でプレゼンテーションを行う人で苦手意識がある人にとっては、内面などから真似るなど出来るはずもないが、見本となる人の真似たいジェスチャーだけ真似ることは必要だったのかもしれない。

モデリングという心理学用語はNLPの創設者たちが作った言葉ではない。
前述通り、NLPのモデリングは一般的な心理学用語のモデリングとは別に考えられているようだ。
一般的なモデリングは主に 幼少期に自然と行う成長過程の行動 であり、多くの場合親がモデリングの対象となる。

モデリングは:
  1. セラピストによる具体的な言葉の指示なしに、クライアントが模倣だけで学習する精神療法のある技法で使用される方法(認知行動療法を参照)
  2. 人間が他人のモデルとして役立ち、他者の模倣する行動を示す一般的なプロセス[1] [2]このプロセスは、発達心理学における子供に関して最も一般的に議論されている。
(en.wikipedia)

これを、大人に対しても有効であると強く主張するものが、NLPのモデリング ある。
NLPを創造しようとした人達は、こういうことってあるよね?みたいな感じでNLPのモデリングとして独自にモデル化して発表したようだ。
実際に、大人が自然に行うモデリングとは何があるのだろうか。
English.Wikipediaさんによれば、言葉の指示がなくても行っている真似のことだ。

親と子供が内面も含めて怖いくらい自然と似ることがあるように、大人が自然ではなく意識的に似せようと思って内面まで嘘をつかずに似せられるだろうか。

長老の言葉、決してこの瞑想会の信者というわけではないが、NLPを突き詰めて学ぶと瞑想に関して興味が出る人が多いらしく、瞑想と言えばヴィパッサナー瞑想が人気のようなので、たまたま行った講話でコピー機の話を懸命に話していた。
NLPのモデリングのことを名指ししていたわけではないが、私にはNLPのモデリングのことのようだと思った。

多くのスポーツや習い事には、確かに基本となる型がある。
大人でも先生につき、その基本となる方法を学ぶだろう。
その方法を習得している先生を真似る、手本とするだろう。
あなたが、今度は先生になって生徒を持つこともできるだろう。
同じ先生から教わって、同じ基本の型を覚えたとして、あなたはあなたの先生と同じような成果を出せるだろうか。
私たち大人が、100m走をみんな力いっぱい走って、同じ結果になるだろうか。
どこかに故障があり、走るのを放棄する人も出るはずである。

幼少期はまだ、心や体が柔軟であるため、違いは少ないかもしれない。
それでも、出てくる違いは何なのか。
その違いがあることが、いけないことだったのか。
モデルとしている人は、その中でトップで走れる人ではないのか。
その人を越して、自分がトップで走れる人になるつもりなのか。

トップに入る人に共通していること、それは真似ることが出来ないものがあるということである。
大抵の人は、そこまで考えていないのではないのか。
軽い気持ちで真似をしているのではないのか。
先生と同じことをすることがよいのか。
周りの他の生徒と同じことをすることがよいのか。

個は、そういった方向性からは出てこないかもしれない。
よく聞く一般論だが、自分で考え、自分で見つけていくこと、違いを出すこと。

集団から個に移動した時、何かが動き出す のかもしれない。